作るひと
めぐみの里 高鍋健一さん
○何年生まれですか?
昭和30年生まれ、
65歳になりました。
八女農業高校卒業。
◯何代農業をしてるんですか?
我が家は多分11代目、
元禄時代かららしい。
宮崎の高鍋からきたということです。
◯何歳から農業を始めたんですか?
生まれた時から農業(笑)
乳飲児の時からお袋と一緒にみかんの石垣積みに出ていた、
小学校は朝行く前に田んぼの草むしりを毎日していた。
◯無農薬農業は親父さんやおじいさんの影響でですか?
昔はみかん農家で、爺ちゃんの代は農薬など無かったので必然的に無農薬、親父の代で農薬使うようになって、農協に出しよったですけど。
爺ちゃんの無農薬栽培を見ていたから、どうにかして農薬を減らす方法ないかなと思っていた矢先に農業新聞で「静岡の農業試験場でみかんの天敵農法」という記事を見つけて、早速電話して、その天敵農法でみかん作りを始めました。
◯天敵農法ってなんなんですか?
みかんっていうのはカイガラムシに喰われて枯れるんです、
そのカイガラムシの天敵は、それに寄生する直径1ミリから1.5ミリのちっちゃい蜂です。
その天敵蜂をみかん畑に入れて、カイガラムシを抑えることができたら無農薬ができる。
◯それでうまくいったんですか?
できたんですよ、本格的な栽培の無農薬のみかんを作ったのは日本でもうちが初めてだと思う。ところがその天敵利用の無農薬栽培が新聞やテレビに載って色々と話題になったんですよ、39年前頃25、6歳のころやったかな。
◯その時周りの人から文句がいっぱい出たとか?
あの頃は大変やった・・・、もう痛めつけられましたからね、あの時は・・・
今でも思い出すとゾッとする。
その天敵利用無農薬栽培で有名になったら、周りの慣行栽培農家から「お前のみかんしか食えんのか!俺たちのは毒か!」「他のみかん農家の立場を考えろ」って怒られました。
地域の周りはみかん農家ばっかりやないですか。僕は「子供たちに安全なおいしいみかんを食べさせたい」って言っただけなのに、それが風評被害って言われて、キツかった。
それでもしばらくは天敵農法はうまく行きよったんですよ、
でも途中うまくいかなくなったんですよ。
◯なんでですか?
他の新しいみかんの天敵が出てきた。
よそはみんな農薬かけるから、農薬がないうちの畑にゴマダラカミキリムシが集まってきて、しかも空から飛んでくるから避けようがない。あれは殺虫剤かければ死ぬんですよでも農薬は使いたくないから・・・、どんどんどんどんカミキリムシがうちのみかん園に集まってきて・・・、で30年くらいしてうちのみかん園は全滅しました。
とうとうみかんの木がなくなりました。
それでは生活もできないやないですか。
それで僕は仲間の生産者にはこう言ってます。農業して生きていくためには収入がいる、
だから無農薬だけに無理に拘らんでいい。
もちろん農薬は減らさないかん。
でも、当然ながら生活するくらいの収入を得るためには必要最低限の農薬を散布して低農薬で作ることも場合によっては必要、って言ってます。
僕は30年間本当に無農薬で作ってきてますが、全滅したら元も子もないので、必要な時は必要な分のできるだけ少しの農薬を使うことも受け入れようってみんなには言ってます。
◯めぐみの里グループはいつ頃立ち上げたんですか?
26、7歳の時に学校給食に無農薬みかんの納品を数人のグループで始めたんですよ。
久留米市と広川と22000人分だったですね。当時の団体名が「ひろかわ産直をすすめる会」でした。久留米の教育委員会からにあんまり広川の字を入れたくないと言われまして(笑)、そういうことで、それを機に「めぐみの里」グループをつくりました。
◯めぐみの里は今何人くらいの生産者がいますか?
生産者総勢30人くらいいます、初めは5人くらいからずーっと増えて。
俺も入りたい、俺も入りたい言うてから友達がまた友達を連れてくるみたいな感じで
いつも間にか大所帯になって。
◯めぐみの里の基本方針はありますか?
ありますよ。
1番の目標は「環境を守ること」、2番目が「会員さんにどんな時も絶対に食べ物を届ける」こと、3番目に農家だって生きていかないかんのやから「正直に自分の作り方をお客さんに伝えること」。
僕一人で無農薬で作ってもそれはうちの畑だけでしかないやないですか。
だからそれを自慢したところで環境は良くならんとですよ。
うちの4、5ヘクタールの畑だけではどうにもならんとですよ環境は。
環境は一人の問題やないやないですか、だから、今農薬を使っている人をいかに減らすかが大事なんですよ、そのためにはメンバーを増やさないかん。そしたらそのメンバーの畑も農薬が減る、近くの川が綺麗になる、海も綺麗になる。
私が環境っていう言葉を出すからには全体のことを考えんとですね、いつまで経っても良くならんとですよ。
だからそうやって作る仲間を増やす、そしてしかもこういうグループがいくつもあるやないですか、九州産直クラブには。こういうところで売ってもらって、任せるのではなくて、私たちがここを通じて発言していこうと。そして本当のことを伝えていこう。
野菜のこと、果物のこと、自然のこと、本当のことを伝えていこうと。
で、今ナチュラルナチュラル店舗の横で青市マルシェをやらせてもらってますよね。
生産者と消費者との顔の見える関係って口で言うけどほとんど顔なんて見えてないのが現実なんですよ。だから本当の意味で顔の見える関係を作ろうってことで店に出かけ青市をやってます。
◯産直クラブに対してご意見は?
ここは素晴らしいところですよー(笑)。
今世界の人口が70億人、発展途上国も発展してどんどん肉を食い始めたやないですか、そうすると耕作地はどんどん広げていかんと牛や馬の食べ物が作れない。だからどうなるんやろかって考えたら、耕作地が減って農家が減ってそのうち食べ物がなくなるんやないかと思う。
日本はまだ飽食って言いよるけど、そのうち食べ物が足らんごとなりゃせんやろかって思う。で、食べ物が足らんごとなった時にですね、俺たちのグループは、この九州産直クラブの会員さんだけはですね、どんなことがあっても食べ物を届けようと思っています。
どうしても俺たちのグループで、この会員さん達だけは、輸入が止められたりいろんなことがあってもですね、俺たちのグループで食べ物を届けようじゃねえか、それくらいの覚悟はあるよね。
俺たちがいる限り産直クラブの会員さんは食べ物の心配はするなって、言いたいよね。絶対作るからって。そのつもりでおるし。
で会員さんが増えたら生産者もまた増やして次の世代にも続けて行けたらいいなって。
必ず食べ物足りんごとなるとよ、どんな時代が来るかわからんやん。
だからそういう時でも俺たちが付き合ってるところは責任持って俺たちで作っていかないかん。だから農地を潰すわけにはいかんやん。
そういう気持ちで俺はここと付き合ってる。
そして、ここの会員さんに俺たちはこうやって作ってるんだって正直に話をしなさいってメンバーには言ってる。農家も生活せないかん、子供も居れば教育費もいる。
だから、無農薬無農薬って俺みたいに40年貧乏したり、借金したりしたら続かんやん。
だから例えば、梅雨時になったら、野菜にもカビが生えるから有機JAS農薬使ってみたりしてそれでもダメな時はしょうがないから生活のために化学農薬を一回使いなさいって。
でそれを正直にこの時期こういうのを試したけど、ダメだったから1回農薬を使いましたってお客さんに、消費者に言ったらちゃんとわかってくれるって。
それが人間やろうがって。誰だって生活せないかんやんねって。
それをきちんとお客さんに正直にそのまんま言えばいい。
無理して「俺はめぐみの里やけん無農薬で作ってる」ってそんなことは言わんでいいて。
正直に言えばいいって。
だって俺は普通に農薬を使っている人をいかに減らすかが目標やから。そんなことで農家が潰れたらダメだって。
今年は化学農薬を使った人だって来年は上手になって農薬使わんで良くなるかも知れんやん、そしたら農薬減るやん。
その人たちがまた周りに「おい、無農薬できるぞ、めぐみの里に入ったら見かけは悪くても買うてくれるひとがおるぞ」ってそうなったらまた農薬が減るやん。
そういうことなんですよ。
運ぶひと
九州産直クラブ 企画部 井手三和さん
◯⽣まれは何年ですか?聞いてもいいんですかね・・?
全然いいですよ(笑)、昭和39年⽣まれです。
◯ご出⾝は?
⼤分です。⼤分の中津です。
◯じゃああの⼈と⼀緒ですね、⾖腐屋の・・松下⻯⼀、「⾖腐屋の四季」の。
ああ!そうですね!
◯いい街ですね、中津。ちょっと古い町も残っててね。実家は何されてたんですか?
公務員ですね。その前は兼業農家だったので、⽣まれは⼭国町ですね。3歳くらいの時中津へ出てきました。農家は⼤変だからということで街に出てきました。
◯いつから福岡ですか?
地元に仕事もないですからね、⾼校卒業して専⾨学校で福岡にきました。結構仕事は⾊々と転々と、トレースの仕事して、そのうちCADの時代になってまた夜専⾨学校に⾏ってCAD習ってCADの仕事など・・・。結婚後、主⼈の仕事のこともあり熊本の⽟名へ⾏って、で2年後にまた福岡に戻ってきましたね。それからはずっと主⼈の⾃営業の⼿伝いをしていました。⼦供2⼈います。もう⼆⼈とも家を出てます。
◯産直クラブに⼊社したきっかけは?
知⼈の紹介です。会員拡⼤の営業の仕事で⼊社しました。
◯会員拡⼤の営業をして・・・すごいですね。
震災の年でしたね、2011年個別訪問としてパートを始めて、2013年営業部として社員、2016年企画部へ転属になりました。
◯営業の仕事はどうでしたか?
⼾別訪問の時はやっぱり⾶び込みなので⼤変でしたね。でも、そのおかげで良い会員さんにも出会えて、それはうれしかったですね。百⼈位訪問して、やっと1⼈そういう⽅に巡り会えて、そういう⽅がいらっしゃるとやっぱり励みになるというか、また頑張ろうって感じでしたね。そうですね・・⼤変だけどやりがいはありましたよね。
◯今やってる企画の仕事はどうですか?
農産とパン担当してます。農産は気候や畑の⽣育状況など先が読めない部分があるので⼤変ですけど、⽣産者の⾊々な話を聞いたら頑張って売らなければ、広げていかなくてはと思いますよね。⼤変だけど、やりがいがある仕事ですね。
◯どんなところが⼤変ですか?
産直クラブの仕事は基本的に予約を受けて届ける仕事ですけど、やっぱり農産物は⾃然のものなのでコントロールできない部分がありますよね。天候で収穫できない時でも、会員さんは待っておられるので何とかして物を届けたいと四苦⼋苦します台⾵の時は収穫できな
かったり、収穫できてもトラックが動かずに発送できないこともあるので。⽋品になりそうになると、どこか持ってる⽣産者を探したりして、うまいこと⾒つかった時はほっとしますけどね。熊本の⽣産者が多いので・・・去年の⽔害時は本当に⼤変でしたね。⼀番⼤変な時は⾼鍋さんにお願いしました、「なんでもいいからあるだけ出してください」ってかき集めてもらって、なんとか⽋品を出さずに済みましたが。
◯会員さんに⾔いたいことはありますか?
⾔いたいこと・・・?うーん、そうですね。農産物は予定通りには⾏かないので、痛みや⾍⾷いなどはある程度理解して引き受けて欲しいという気持ちはあります。農薬を使ってなかったりするということはそういうことだと、そこら辺は想像して欲しいですね。あんまり痛みがひどい場合などは、もちろんこちらの流通が悪い場合もあるんですけど・・・あんまりいうとまたお叱りを受けるかも知れないですけど、ある程度は理解して欲しいですね。極端な例ですけど、ちょっと端っこが傷んでるとか、1個傷んでるからって全部返品になってしまったりして・・・、皆さんは有機野菜は⾼級で綺麗というイメージが写真とかであるかもしれませんが、無農薬であればなかなかキレイは難しいじゃないですか、⾍だってつくし。うちの難しい点はやっぱり⾒て選ぶわけではないので、会員さんのイメージと違う物が届くというのがありますよね。宅配っていうのはこちらが⼀⽅的に選んで送るという側⾯もあるのでそこが難しいですね。
◯⽣産者に⾔いたいことはありますか?
⾊々と気候が読めず⽣産者さんも⼤変だと思うけど、次の世代っていうんですかね、若い世代にきちんとした⾷べ物を届けるために、もちろん私たちも頑張らなきゃいけないんですけど、⽣産者の⼈たちあっての私たち産直クラブなので⽣産者の⽅々には頑張って続けて⾏ってほしいですね。もう、作る⼈がいなくなったらおしまいなので・・・。
いとバイ通信
元熊本産直クラブ代表 伊東弘
このコーナー担当の伊東弘69歳です。初回なので⾃⼰紹介をします。私は福岡出⾝で25歳の時NGOの駐在員として独⽴したばかりのバングラデシュの農村で1年半活動しました。⾃然⾷品の仕事に40年以上前から携わっています。産直クラブの発⾜時から会員さんへ加⼊時の説明を⾏い私の説明を聞かれて加⼊した会員さんもたくさんいると思います。もっと皆さんに正確でわかりやすい説明をするために⾷品について学びながら考えてきました。
皆さんはどんな⾷⽣活がいいのか悩んだことはありませんか。巷ではありとあらゆる「どんな⾷⽣活をすればいいのか」という説があふれています。その中には同じ主旨の真逆の説も多くあり、どちらが信頼できるのか迷っている⽅も多いでしょう。私は40年近く⾷⽣活について考え続けてきました。その中のいくつかの説は私の中で腑に落ちています。
そんな私の腑に落ちた説をこのコーナーで⾃由に書いていきます。⾃⼰紹介も少しずつ⼊れ、語っている私の信頼度も加味して読んでもらえたらと思います。
⾃然⾷品の代表的なものが農産物です。我が家があるのは熊本県菊地市の農村地帯です。そんな農村の真ん中で農業について考えることから始めます。
全ての農家は⾃然を守り保全することを担っています。農業のおかげでトンボなどの⽣物が存在します。⽔の場合では熊本市は典型的で阿蘇市の⽔⽥農家のおかげで⼤量の湧き⽔を⽔道⽔にできています。
私は農薬や化学肥料を使っていない地元農家でアルバイトしたことがあります。畑には図鑑でないとわからないような沢⼭の⾍が⽣息していました。無農薬だと⾍⾷いの被害リスクにさらされます。また⼤変なのは草取りです。除草剤を使わないので草取りは⽋かせません。種をまくと作物と草の成⻑の競争になるので草を取ってやらないと作物が成⻑できません。草取り作業は地⾯に這いつくばっての作業で農作業になれていなかった私には⼀番⼤変な仕事でした。
消費者である私たちは農薬や化学肥料は⽣産者の知識不⾜や努⼒不⾜と思いがちです。しかし⽣産者はむしろ消費者の求めるものを作ろうと努⼒しています。農薬や化学肥料の使⽤が⽌まらないのは消費者意識の反映という側⾯もあるのだということを理解する必要があると考えます。
だから⾃然⾷品の運動は⽣産現場や問題の本質の理解が⽋かせません。このコーナーがその理解の⼀助となることを願っています。
ちなみに、この連載の題名を「いとバイ通信」としたわけはNGOの駐在員としてバングラデシュにいた頃村の⼦供たちからイトバイ(伊東兄ちゃん)と呼ばれていたことに由来します。
コミューン時評
ドリームグループ代表 吉田登志夫
◯昔、「ウィルス」はラクダに乗ってやって来た
昔、ウイルスはヨーロッパからシルクロードを駱駝に乗ってアジアまでやって来ていた。駱駝の歩みのスピードでタクラマカン砂漠やモンゴル⾼原を越え、極東までジワリと渡って来た。ウイスルの広がりと同時に抗体免疫もほぼ同じ駱駝の速さでヒト社会に広がり、したがって「パンデミクス(感染爆発)」は発⽣しなかった。翻って現代、新型ウイルスは⾶⾏機に乗ってやって来る。ヒトに抗体免疫ができる時間余裕もなく、容赦なく瞬時にウイルスは広がる、地球上は⼤騒動。
◯「地域内での⼩さな⾷べもの流通」をつくること
新型コロナウイルスは、便利に広がってしまった⼈間の⽣活形態(社会の仕組み)の在り⽅そのものを問いかけているのではないだろうか。⾷べものの分野においては「⼤量⽣産・広域流通・⼤量消費&廃棄」ではなく、「地域内の顔が⾒える⼩さな⽣産者と消費者の相対の産直流通の仕組みづくり」こそ根本的にコロナ禍を克服していく筋道ではないかと考えられる。⾷べ物の⼤規模・広域流通をやめること、⾷べ物の流通において輸送の「スピード」「距離」「量」「域」を⼩さく抑えていくことこそがコロナウイルスと共存するカギであろう。世界や⽇本国内で巨⼤に広がってしまった⾷べもの流通を、地域単位での⼩さな産直の仕組みに作り変えるーコロナウイルス問題の根本的解決は「ヒトの⾷べ⽅、暮らし⽅を変えること」にある。そして、産直クラブはコロナ禍の時代に対応できる貴重な暮らしの道具になっていくものと確信する。